皇居周回路の1187、1188
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 イチョウ(銀杏、公孫樹)       イチョウ科

 イチョウの実、銀杏が落ちる季節になりました。
 イチョウには、雌雄異株といって、実の生る雌樹と生らない雄樹とがあります。
「大手濠緑地」には、お濠端に雄樹の老木、内堀通り沿いに雌樹の大木があって、時計と逆周りで進む場合、大手門前を過ぎて間もなく、左手前方に和気清麻呂公の銅像と共に見えて来る特異な形の独立樹が、雄樹の方です。
 毎年、爽やかな秋が訪れる頃になると、何が心配なのか、雌樹の下から空を見上げて溜め息をつく人が増えます。 そんな光景が見られて一週間もすると、ポリ袋を提げた熱心なコレクターが、早朝から樹の下を歩き回るようになります。中には器用にお猿さんの真似をした上、ユッサ、ユッサと大枝を揺する人まで現れます。
 銀杏の果汁が皮膚に触れると、カブれる体質の人がいるのを、ご存じでしょうか。この記事を読んで、蒐集家に俄か弟子入りを思いつかれたあなた、ご自分の皮膚にご相談なさるなど、ご用心のうえにもご用心を。
 一方、雄樹の方は、余程の老齢と見えて、大きく裂けた幹の空洞部分に、発泡スチロール状の化成品が充填されてから、既に10年近くも経ったでしょうか。痛々しい姿で、お濠に影を落としています。
 この老樹の輝かしい歴史を記した樹下の解説板が、昨年夏に壊されてからというもの、由来を知らないまま、大勢の観光客の中には、詰められた合成樹脂を引っ掻く詮索好きな人が現れたりして、樹勢の衰えを心配したのですが、三月になって千代田区教育委員会の手で、解説板が立て直されました。 お蔭で、訪れる人々から再び、80年前の雄姿を偲ぶ熱い眼差しが向けられるに至り、心無いいたずらもピタリと止んで、千代田走友会会員一同、ホッと致しました。
 新しい解説板には、以下のように記されています。
 

  (内容は、旧解説板と同趣旨になっています。 なお、老樹を救った恩人二人の略歴は、
   原文の記載を、一層簡略にしましたので、悪しからず。)
 
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 








   
 
 
 
 







 


 



















































 

















































































 































 



































































































































































































































































































 




 

 イチョウの仲間(イチョウ目)は、古く古生代に出現し、中生代ジュラ紀(2億1200万年前から1億4500万年前)に最も栄えましたが、中生代末期に、恐龍が絶滅するほどの気候激変が起きて、イチョウ目のほとんどが姿を消しました。新生代第三紀(6500万年前から170万年前)まで残り得たのは、暖かかった中国南部で僅かに生き残った現在のイチョウ1種だけだったということです。
 出現、絶滅の時期は、世界各地で発見される化石で、推測出来るのでしょうが、こうした歴史を持つイチョウは、「生きた化石」と言われています。
 従って、化石でしか見られない西洋の人々の眼には、大変、珍しい樹と映るようです。
 日本に斎らされたのは、6世紀半ばの仏教伝来当時だろうという説と、記紀にも万葉にも全く現れないし、源氏にも、枕草紙にも記述がないため、鎌倉時代まで下がるとする説とに分かれているようです。 後者だとすると、大銀杏の蔭に隠れて、公暁が叔父の実朝を暗殺したという言伝えも、後世の作り話ということになります。 はて、どんなものでしょうか。
 中国の表記に倣って公孫樹と書き、「いちょう」と読んでいますが、公孫は「王侯の孫また王侯や貴族の子孫」と辞書にあります。 イチョウの木は、実が生るまでに長年月を要しますので、孫の代に実る樹の意味で公孫樹と名づけられたのでしょう。
 ところで、前述しましたように、イチョウは、雌雄異株で、4月ごろ、雄樹には薄黄色の花がつきます。 花と言うのは俗称で、植物学上では、生殖器官というほかないようですが、長さ数cm、柱状の生殖器官には、おしべが螺旋状に着いています。
 雌樹の生殖器官は、細長いこれも数cmの緑の柄の先に胚珠が2つ着いた形をしています。
 雄樹の花粉は風で運ばれて、雌樹の胚珠に到達します。 何百m先にしか雄樹が無くても結実するそうですから、自然の営みは精妙です。 花粉が附着した胚珠は、その刺激で発育を始め、9月初旬までに、緑色のギンナンに成長します。
      (此処から先、7行の記述は、顕微鏡下の世界です)
 附着した花粉は、まず胚珠の花粉室に引き込まれ、次の造卵器室まで伸びた花粉管内で、発芽して2個の精子をつくり、9月上、中旬になると、鞭毛のある精子が、花粉管の中を泳いで、造卵器室に続く造卵器の中にある卵まで辿り着き、そこで受精が行われると言います。
 裸子植物の後から出現する被子植物では、花粉管が、卵細胞を収める胚嚢まで伸びて、精細胞(精子に相当する)を直接卵細胞まで送り込むので、精細胞には、鞭毛が無いのだそうです。

 イチョウの精子が発見されるまで、西洋の植物学界では、被子植物のように、花粉で精細胞を卵細胞に運ぶように進化してはいるものの、花粉管の伸び方などから見て、シダ類から進化した裸子植物の中には、精細胞が鞭毛のある精子の形をとどめているものもあるのではとの合理的な想像が、なされていました。
 東京帝國大學理科大学(現在の東大理学部)の助手だった平瀬作五郎氏が、花粉管の中を泳ぐ径0.1mmほどの精子を、東大附属植物園(小石川植物園)の大イチョウから取った雌花を顕微観察して発見したのが、1896年(明治29年)9月9日、今から105年前の出来事です。
 平瀬氏の発見は、植物学上の一大発見だそうで、平瀬氏に助言を与えて発見のきっかけを作った東京帝國大學農科大学の池野誠一郎助教授もまた、1カ月程後にソテツの精子を発見します。 予想を裏づける発見の連続で、植物進化のプロセスが一段と鮮明になった訳で、当時の植物学界はこの快挙で、湧きに湧きました。
 発見百周年に当たる1996年の9月9日には、小石川植物園に現存する件の大イチョウの近くに、内外学者が集まって、記念式典が催され、安田講堂では、午後2時から、一般公開の記念市民国際フォーラム「植物と人間の接点−−いまなぜイチョウか」が開かれたほどですから、業績の偉大さがお解り頂けましょう。
 (朝日新聞’96年8月23日夕刊12面、日経新聞’96年9月9日夕刊14面などを参考にしました。 一般読者向けに書かれた記事を、私なりに理解して要約しましたので、不正確な部分があることをおそれます。 正確な知識は、専門書で習得して下さい)。

               ’82年4月入会   佐々 幸夫(69)

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