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6月 キンシバイ(金糸梅)とビヨウヤナギ(未央柳) アジサイ(紫陽花)
  オトギリソウ科オトギリソウ属のキンシバイ(金糸梅)とビヨウヤナギ(未央柳)

アジサイの花芽が色づき始める5月下旬から走路沿いの3つのエリアを始めとして、その周辺で、低木に、深黄色と言いましょうか、鮮やかな黄色の花が咲き始めます。

キンシバイは、代官町料金所周辺の車道脇や、中央分離帯に、広範囲に植栽されていて、周回路を反時計回りに走る場合、料金所を過ぎて、上り坂の周回路が右手の車道と等高になる地点(桜田門時計塔起点で約2.6km)の手前10m余に亘って、走路右手の斜面に咲く花を、手に取ることができる位置で見ることになります。 半常緑性の低木で、春先に長楕円形の葉をつけた細い枝を盛んに伸ばし、初夏になると、その先に直径3cmほどの、黄色、5弁の花が、半開きで、咲きます。 めしべを囲む多数のおしべを金糸に、5弁花を梅に見立てての命名です。

ビヨウヤナギは、平川門の直ぐ先から竹橋のたもとまで、道灌公公園のところどころ(主としてお堀端)に、かたまっています。 以前はよく目立ちましたが、手入れがなされていなくて、「残っている」といった観があります。

代官町通りから外堀通りへ出る曲がり角、走路から千鳥が淵公園へ上がる細い通路の辺り(時計塔起点3.05q)にもありますが、こちらは、通路開設時に除去された、文字通り「残り」です。

春先の枝、葉は、キンシバイと区別がつきません。 ヤナギと名がついていますが、よく成長した葉だけが、キンシバイの葉より、細めかなと感じられる程度です。 花が咲き始める時期は、周回路では、キンシバイより少し晩いようです。 遠目では区別がつき難いものの、花の直径は約5cmと一回り大きく、同じく5弁ですが、こちらは全開します。 花弁がうんと細長いため、花弁と花弁との間が空いていて、キンシバイの花とは、全く趣を異にします。 特徴的なのは、多数のおしべが、大変に細くて長く、おしべ全体が、花冠よりも高く、半球状に盛り上がることです(中国名 金糸桃)。

ビヨウヤナギが中国から渡来したのは、江戸時代初期らしく、朝日新聞社刊 「植物の世界」(週刊)78号7-164頁によると、1694年(元禄7年)成立の貝原益軒著「花譜」に、「金糸桃」の記載があるとのことです。

未央柳と書いてビヨウヤナギと読ませるのに、びっくりしました。

漢の高祖劉邦(前247−前195)が、長安の竜首山に造営した宮殿が、未央宮。 時は下って、唐の時代にも造営され、その第六代皇帝が玄宗(685-762)。 「開元の治」と称賛される善政を布きながら、晩年に楊貴妃を溺愛し、彼女の一族、楊国忠を宰相に据えたところ、彼と、同じく重用した胡人(ソグド系)の安禄山とが対立、755年、安禄山の乱(安史の乱)を招いた。

四川へ逃れる途中、楊貴妃(妃の最高位、后に次ぐ。 即ち第二夫人)が官兵に縊死させられた。 玄宗は756年、子の粛宗に譲位。 757年、安禄山がその子、慶緒に殺されて、玄宗は、長安に戻ることができた 云々

玄宗と楊貴妃との愛と悲しみを綴った長編叙事詩「長恨歌(ちょうごんか)806年完成」を世に出した唐の詩人、白居易(白楽天 772-846)の諸作品は平易明快で、日本文学にも多大の影響を与え、長らく知識人の愛唱するところとなりました。

長安に戻った玄宗が眼にした風景は、楊貴妃が居ないだけで、昔のまま。 城内の大明宮にある太液池の芙蓉(当時は、蓮の花を指します)に、貴妃の面影を重ね合わせ、未央宮の柳に、その美しい眉を思い浮かべて、玄宗は涙、涙・・・。

長恨歌にある「太液の芙蓉、未央の柳」の七言は、源氏物語の桐壷の巻に、そのまま使われているほどで、平安時代以降、わが知識人の素養に、しっかり取り込まれていました。

中国名「金糸桃」の美しい花に、江戸の知識人が与えた名が、これに因んだ「未央柳 ビヨウヤナギ」。 花の美しさに打たれ、「この花に、すばらしい日本名を」とばかり、「金糸桃」の向こうを張り、美人の「細い眉」を思い浮かべて落涙した玄宗皇帝の故事を、葉っぱでなくて、花の命名に役立てようとしたのは、いささか無理がありましたね。 漢文の世界から遠くなった昨今、若い葉を見て「ちっとも柳らしくない」との感想が多いんです。

序ながら、キンシバイも、中国から江戸時代中期に渡来しました。 前掲「植物の世界」の同頁には、「1760年に中国から渡来したとの記録があり・・・」との記載があります(1760年は、宝暦10年に当たります)。

キンシバイは、ビヨウヤナギの中国名「金糸桃」から思いついた命名でしょうが、「金糸」と称するに相応しいのは、むしろビヨウヤナギの方で、「金糸梅」も、「未央柳」同様、やや失当と言いたいですね。

ところで、平成の辞書では、未央柳は、ビヨウヤナギ。 でも、未央宮の読みは、ビオウキュウ。 なぜこうなったのでしょう。

漢字の読み方には、中国での発音をそのまま取り込んだ「音」と、大和言葉に翻訳して当てた「訓」がありますね。 「音」にも、「漢音」、「呉音」等の区別があって、唐の長安は、「漢音」(当時の日本では「正音」と呼ばれ、標準的な発音とされていました)の話される中心地でした。 呉音は、「南方訛り」と見做されていました。

遣唐使などが持ち帰った「未央宮」は、当然、漢音のビヤウキウ(旧仮名遣い)、江戸の文化人にもそのまま継承され、必ずや漢音でビヤウキウ(戦後の新仮名遣いでは、ビヨウキュウ)と発音されていたことでありましょう。

ところが、未の「ビ」も、央の「ヤウ(ヨウ)」も、他にはあまり用例がありませんから、未には呉音の「ミ」、央には、これも呉音の「アウ(オウ)」だけが、一般の読みとして残りました。 戦後、当用漢字の音訓表が出来て、「未」についても「央」についても、読みの正統派である漢音の新仮名遣い「ビ」、「ヨウ」の方は、(使用例がほとんどないという理由で)捨てられてしまいました。

今の我々には、ビオウキュウも無理、素直に読めば、ミオウキュウとなってしまいます。

未央柳の方には、「美容柳」という判り易くて、振り仮名的役割をしてくれる助け舟が出て来ました。 お蔭で、「未央柳」という表記も、言わば、添え書き的に残ることでしょう。

(旧い用例ですが、未亡人をビボウジンとも読んでいました。 もともとは、自称ですから、ビボウなんておこがましくて言えなかったのでしょうか。 また、干支で、十二支の8番目「未」を、「ビ」、訓で「ヒツジ」と読みます。 「丙午、丁未(ヘイゴ、テイビ ヒノエウマ、ヒノトヒツジ)は、災禍多し」などとありますが、大版の漢和辞典でも、「ビ」の例は稀少、「ヤウ(ヨウ)」の例は、まず絶無と言えます)。 なお、「宮」の呉音は、「ク」です(例 宮内庁)。

(註)「未央宮」「玄宗」「白居易」「太液」「漢音」「呉音」を検索語として、三省堂「大辞林」小学館「大辞泉」の記載を、また講談社「大字典」の「未」「央」の項を参考にしました。

                 ’82年4月入会   佐々 幸夫
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