農業体験記第4話「田植え休み、稲刈り休み」後編
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2022年6月29日
  樋口茂
田の草取りが終わり、・・・夏になる頃には稲穂が垂直に伸びて、一斉に白い花が咲きます。やがて青い実となり、徐々に粒が大きく重たくなると、垂直だった稲穂も傾き始めます。

尚、「みのるほど こうべをたれる いなほかな」と言う「句の本意」は、実りの秋を喜んで詠んだものではありません。使い方を誤るとケンカ沙汰になるので注意しましょう。因みに、麦は実っても頭を垂れません。

余談になりますが、米と麦のこの違いについて、ある方はこう解説しています。麦は冬の間に麦踏みをされ、その屈辱感から真っすぐ生き抜く決心をした。一方、米は育つ過程で八十八回も手入れをしてくれた農家の人たちへの感謝を示している。育て方の違いなのでしょうかねぇ・・、人間にも当てはまりますか?・・・。

(余談が過ぎました)さて田んぼが一面黄金色に輝き、稲穂が頭を垂れてくると、ようやく稲刈りの時期となります。実は、稲刈り作業を始める前に、一つ済ませておかなければならない「大きな事前準備」があります。「ハサ」作りです。

今は、コンバインで収穫したコメは、すぐに農協の大乾燥所に運ばれて「機械乾燥」されます。私の頃は、刈り取られた稲は全て、「自然乾燥」でした。その乾燥させる場所を「ハサ場」と呼びました。したがって、稲を刈る前に、稲束を干す「ハサ」を作っておかなければなりません。

「ハサ場」は各農家の直近の田んぼを使います。そこには農道沿いに「たも木」が等間隔に植えられています。その木に、竹竿を横にして「細縄」で括り付けます。上下7〜8段くらいの、言わば稲用の多段式物干竿ですね。細縄(ほそなわ)は「稲わら」で編んだ縄で、予め、農閑期の冬場に作っておきます。小指よりも細い縄ですので、これも農家の子供は作らされたんですよ。太目のものは単純に「縄」と言っていました。これは「縄ない機」と言う専用の機械で作りますが、大人が扱いました。この縄で重い米俵の胴体を縛ります。

さて ハサも完成し、田んぼも黄金色に輝くころ、小学校は1週間の「稲刈り休み」に入ります。稲刈り及び関連作業は数週間にわたりますので、休み1週間では農家にとって本当は足りなかったと思います。

稲を刈る鎌ですが、鎌には大きく3種類あります。稲刈り用には刃の部分が長い、通称「草刈り鎌」及び「稲刈り鎌(ノコギリ鎌)」を使います。もう1種の鎌は刃の長さが短く、普通の畑の「草取り鎌」です。

稲の刈り方ですが、稲株をわしづかみして鎌で切り、持ったまま次の株に重ねて、5〜6株を切ったら、その束を一旦脇に置きます。もう1度5〜6株切り、脇の束に重ねます。それを、藁(わら)数本で縛ります。これを繰り返します。イラストをご覧ください。稲株1株は握ると意外と小さく、子供の手でも3株くらいは握ることが出来ます。この様に束ねられた稲束は、持てるだけ持って、道路端へ運び出されます。そこには牛車(うしぐるま)が待っていて、荷台に積み上げられ、ハサ場へと運ばれます。
   

 
ハサ場で牛車から降ろされた稲束を、今度はハサに掛けます。ハサ掛けは大人の作業。そこに稲束を渡すのが私の仕事。ハサは高い位置は2階程になりますので、父は梯子に上り、私は下から稲束を一つひとつ放り上げます。父は上でキャッチして、稲束を二股に広げてハサに掛けます。

100束なんてもんじゃない、いったい何束ハサに掛けたか分かりませんが、季節は秋、つまり台風シーズンです。稲束を掛けたままのハサは、屏風を広げたようなものですので、台風が直撃したらハサは「たも木」ごと倒されてしまいます。ラジオが、明日、台風が新潟を通過すると報じたら、家族総出で、夜でも、今度は「ハサ下ろし」作業をしなければなりません。翌日、台風一過、今度は下ろした稲束を、また「ハサ掛け」しなければなりません。当時、農業は時間との闘いでもありました。
   
自然乾燥された稲束は、ハサから下ろして牛車に積み、母屋の脇の作業小屋に運びます。「脱穀作業」の始まりです。当時、作業小屋の外には「せんばこき」が置いてありました。時代劇あるいは江戸浮世絵にはたまに見かけますが、我が家でそれを使って脱穀したのは見た記憶はありません。作業小屋には、ちょっと高い位置に「モーター」があり、下には平ベルトで駆動される「脱穀機」がありました。印象的にいつまでも目にあるのは、父がモーターにスイッチを入れるときの様子です。いっぺんに「スイッチON」ではありません。「チョン, チョ〜ン、チョ〜〜ン・・」とON・OFFを繰り返して、徐々にモーターの回転を上げてから、「スイッチON」に入れていました。オヤジのこの手口が、子供の目にはカッコ良く見えました。「その科学的理屈」を知ったのは、就職後、仕事で発電機とモーターを勉強した、15〜20年後のことです・・・。

脱穀機に稲束を差し入れると、子供の力では機械に引っ張り込まれるので、扱ったことはありません。脱穀されたものを「籾(もみ)」と呼びますが、次は「籾擦機(もみすりき)」で、籾を「籾殻(もみがら)」と「玄米(げんまい)」に分離、つまり籾を皮むきします。籾擦機もモーター駆動ですので、直接手伝った記憶がありません。この機械から籾殻が大量に吹き出す光景が、記憶にあるのみです。米俵に詰めるのはこの玄米ですが、実はその前にもう一手間掛けなければなりません。この時点の玄米には、籾殻のカスや、「しいな(未熟な玄米)」など不純物が混じっています。この不純物を分離する道具が「唐箕(とうみ)」です。大きな羽根車を回して、風力で玄米の中のカスやしいなを分離します。重い玄米は手前に落ち、軽いしいなはその先に落下し、さらに軽いゴミは風と共に外へはき出されます。この羽根車を回すのが、小生の役割です。「しいな」は養鶏業者に飼料として売ります。
 


 
きれいになった玄米は俵に詰め込まれます。俵は農閑期の冬場に、稲わらで編んでおきます。1俵は4斗、重量換算では60kgですので、子どもが出る作業ではありません。そこへ農協の人が品質検査にやって来ます。俵に筒状のものをブスリとさし、抜くと何ccかの玄米が入っていて、検査をしていました。等級も決まり、米俵を牛車に積んで、農協に出荷すれば、ざっと7〜8ヶ月に亘った「コメ作り作業」も終わりとなります。

しかしヒマが出来たわけではありません。来年の稲作りの準備を冬の間に済ませなければなりません。俵作り、縄作りなど・・・。

稲わらを布団に入れた「わら布団」、籾殻を枕に入れた「籾殻枕」など、農家ならではの慣習や、まだまだ話足りない農作業はありますが、農業体験記は4話で終わりとします。子供の目から見た昔の農家の話のつもりですが、こんな話はネットにもなく、どこかに書き残しておきたいと思っていた所、当欄の管理者から投稿の了解を頂いたことに感謝申し上げます。

(ご参考)JR中央線塩山駅は、大菩薩嶺など登山の最寄り駅として有名ですが、この駅の北口側に「甘草屋敷」と言われる古民家が公開されています。その一角に、私が色々紹介した農具、農機具が展示されています。

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