農業体験記第2話「スイカ」
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2022年5月2日
  樋口茂
皆さんは、スイカの中身は何色、と言われたら迷うことなく赤、と答えるでしょう。ムカシは他に、銀スイカと黄スイカが栽培されていました。中身が銀色や黄色だと言うスイカです。スイカ玉の色は緑ではなく、全体的にグレーっぽく、細かいしま模様で覆われ、シマとも言われていました。しかし、スイカと言えば「緑色の玉に真っ赤な中身」と言うイメージが定着し、銀や黄は売れなくなりました。後年、我が家の栽培も今のスイカ1品種になりました。

スイカ栽培は、スイカの種から芽が出た苗を、そのまま畑に植えればいい、と言うものではありません。スイカは連作を嫌いますし、病気にかかりやすいので、ユウガオ(かんぴょうの原料)の幼苗を「台木」にして、スイカの幼苗を「接ぎ木」して大きくします。

先ずはスイカもユウガオも種まきから始まります。温室にまくのですが、今のビニールハウスのように、人が入るような立派なものは、当時ありませんでした。稲わらを立てた形で、縄でつないで長方形で四角く「囲み」を作ります。ですから高さは子供の胸位だったでしょうか。その中に土を入れます。種をまいた後、障子戸に油紙を張った覆いを、何枚かで囲みにフタをします。ですから温室の幅は障子戸の高さになります。これが当時の温室です。「とこ」と言いました。油紙を張る仕事も、農家の子供は手伝いました。紙に油をしみこませてありますので、雨にも風にも耐えました。

やがてスイカもユウガオも芽が出て成長し、子葉(ふたば)が広がります。子葉の形は似ていますが、ユウガオの子葉はずっと大型です。更にユウガオの真ん中にわき芽が出てきたら、「接ぎ木」の頃合いとなります。接ぎ木をするには道具が必要です。竹べらの先端を、カミソリのように平たく鋭利に削ります。これを準備したのは、親爺か兄でしょう。

さて接ぎ木の作業です。先ずユウガオの幼苗の真ん中のわき芽を、指先でもぎ取ります。そしてその部分に、竹べらの先端で「切り込み」を入れます。一方、スイカの幼苗の茎をカミソリで斜めにカットして、根っこを捨てます。カットされたスイカの幼苗を、ユウガオの「切り込み」に差し込みます。これで接ぎ木作業は完了です。この作業で最も重要なポイントは切り込みです。切り込みが深ければスイカの幼苗が緩くて落ちてしまい、浅ければこれも差し込みが効かず、接ぎ木出来ません。この微妙な作業も、数回失敗すれば、勘所が分かるようになり、小学生でも出来ました。この作業は1日で終わることが原則だったようです。そのために子供も労働力でした。
 


接ぎ木を終えた苗は、再び温室に植え戻し、成長してスイカの葉っぱが何枚か付いたら、外の畑に植えられました。

やがてスイカも大きくなり、出荷時期を迎えます。熟したかどうかは外見では判断できません。親爺の頃は、指でポンポンとはじいて、判断していました。もがれたスイカは、畑から道路まで運び出さなければなりません。想像してみてください、あのでっかいスイカ玉を1個1個、砂地の畑を歩いて持ち出すのも、子供の仕事だったんですよ。道路には「牛車」があり、それに積み替えるのは大人の仕事でした。

「牛車」を“ぎっしゃ”と読めば、平安時代の貴族のマイカーになります。農家の人はこれを“うしぐるま”と言い、今の軽トラ的存在でした。

「あさはあさぼし、よはよぼし」、百姓の1日の労働時間を表した言葉です。朝は暗いうちから田畑に出かけ、夜は暗くなってから帰宅する、と言う意味です。スイカの収穫を「スイカだし」と言います。午後比較的遅くにスイカ畑に行って薄暗くなるまで作業をし、夜星を見ながらスイカを積んだ牛車とともに帰宅します。

翌朝は、暗いうちから朝星を見ながら、スイカを積んだ牛車と共に家を出ます。牛の速さは人より遅かったでしょうか。空が白々する頃、市街地にある青果中央市場に到着します。私は数回、スイカの荷台に乗って市場へ行った記憶があります。

就職して数年、お盆に帰った時、スイカだしの手伝いを頼まれました。久し振りに全身汗を流したその晩の日本酒の旨かったこと!、今でも忘れられません。今からざっと50年前の話です。どんなにランニングで疲れても、その味は再現しません。

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