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「自分のゴール」目指し
不健康な生活から脱却
2000年5月29日 読売新聞(地域ニュース) 新聞記事の内容
フリーライター
夜久 弘さん (54) 

皇居をかける

 遠く北の大地に来て、オホーツクの冷たい風に吹かれるのもこれで3度目だった。
 1993年6月、北海道の「サロマ湖100kmウルトラマラソン」。
 前の年は、10時間6分で完走したが、この年はどしゃぶりのレースだった。
 70キロを過ぎて、全身に冷えが伝わり、股関節がギシギシ悲鳴を上げた。
 76キロ。もう立っていることができず、がっくりとひざをついた。


写真
薄やみに包まれる皇居外周を走る夜久弘さん
(竹橋から千鳥ヶ淵にかけての上り坂)
 <自分の力、すべて出し切った>
 リタイアした悔しさより、不思議とそんな思いが込み上げてきた。自分の中のガソリンはもう、一滴も残ってない。
 ウルトラマラソンには、「公式のゴール」と「自分自身のゴール」と2つのゴールがある。
 雨に打たれ、この日、自分自身の肉体の限界にたどり着いたと感じた。
 皇居外周を走り始めて18年。42.195キロを越えるウルトラマラソンという名のレースを計32回走った。リタイアはわずか2回。だが、その2つともすばらしいと思う。
 最初の1周は37歳の5月のある朝だった。
 「今日から走るから」。寝ぼけ眼の妻にそう言って、自宅のあった神田神保町から皇居へと向かった。
 そのころ出版社勤めで、季刊のマンガ雑誌の編集長をしていた。
 締め切りを守らないマンガ家たちにつきあい、一晩で百本のショートホープ。神経が擦り切れ、慢性的な睡眠不足と不快感があった。
 家族と散歩中に、えたいの知れないおう吐感に襲われ、しばらく動けなくなった。病院へ行けば、”胃潰瘍”と病名をもらうに違いない。そう考えると、怖くて行けなかった。
 その4年前、業界でも有名な遅筆のマンガ家を担当していた。
 前夜からへばりついていた仕事場を出たのは明け方近く。睡眠3時間の日が続いていた。
 締め切りをとっくに過ぎたとらの子の原稿を抱え、印刷屋へと急ぐタクシーの車中で、玉川上水の土手を走るジョガーを見た。
 <自分とは全く違う一日の始まりがある>
 「そういえば、中学時代はそこそこ速かったな」。田舎の中学では陸上部がなく、地区大会に”にわか部員”として長距離選手として選ばれていた。
 子供のころの自慢できる思いがだれにも1つくらいはある。大人になって、忘れていたこと。自然と涙がにじんできた。
 「だれでもウルトラマラソンを走れる能力はあると思うんです。トップの選手も僕らも同じ人間。眠っている力をどれだけ引き出せるかなんでうよ」
 今年も6月のサロマには、自分が参加する同好会「明走会」から32人が参加する。3分の2がウルトラ初挑戦。1年前、5−10キロしか走れなかったメンバーもいる。
ユニフォームの鮮やかな黄色にちなんで、「ひまわり大作戦」と名付け、走り込みなど1年かけて準備してきた。
 初夏のサロマに大輪のヒマワリを咲かせるのが夢。全員が自分自身のゴールを目指して。
読売新聞、読者相談室 新聞記事掲載了承済み