皇居周回路の1187、1188
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  ヤブツバキ(薮椿)          ツバキ科

 私達は、ツバキと一まとめに呼んでいる中に、実に沢山の品種があることを知っています。 椿という字は、春に咲くことから、日本で漢字に似せて作られた文字、いわゆる国字で、ツバキという呼び名の方は、艶葉木(ツヤバキ)または厚葉木(アツバキ)から転訛したのであろうと、想像されています。
 日本に自生しているツバキに、ヤブツバキとユキツバキがあります。 ユキツバキの方は、ヤブツバキの亜種または変種に分類する学者もありますので、ヤブツバキが、日本の代表的なツバキということになりましょうか。
 千鳥が淵公園の半蔵門寄り、「自由の群像」の建っている辺り、お濠に面した側に、東京都が、季節を代表する樹、数種を集め、「季節センサー」なる解説板を、それぞれの根元に置いています。 ヤブツバキも、その中に加えられていて、お濠に向かって一番左(桜田門起点のキロ程で言えば、3.42km)に、樹高2mほどの一株があり、

  Camellia japonica Linn. ヤブツバキ 薮椿

    ヤマツバキとも呼ばれ、たくさんのツバキの園芸品種の
    もとになっています。 種から椿油を取り、また種の中をくり抜き、
    笛を作って遊びます。(ツバキ科)

という解説板と

          季節センサー・ヤブツバキ

    すでに原生林の大部分が失われている日本の常緑広葉樹林
    帯の代表的樹木です。
       落ちざまに 水こぼしけり 花椿     芭蕉

    ツバキの開花日(昭和31〜60年平均値)
    北海道江差 4月13日 東京 2月8日 沖縄県南大東島 12月3日

という解説板が添えられています。

 三宅坂の始点から120mほど、カンツバキの寄せ植えが続いた後、多種類の植え込み(ツツジ、サツキ、アジサイ、サザンカ、アシビ・・・・)に混じって、胸の高さほどに樹高を抑えた色々の品種のツバキが植えられています。
 また、三宅坂の中程過ぎ、桜田門起点で、4.1km地点と、4.4km地点に数本のツバキの独立樹があって、花のピーク時には、落ち椿が、根元を真っ赤に埋め尽くします。 特に4.4km地点に立つ高木の満開時が見事だったのですが、昨年(’00年)夏頃から、どの木も樹勢が落ちて心配しました。 枯死寸前になった木もあって、昨シーズンは、花の数も減り、色も冴えませんでした。虫害なのか、病害なのか判りませんが、三宅島の火山性ガスの影響だったのかも
しれません。 なにしろ、三宅坂の椿ですからね。 最近になって、樹勢の回復が見られるようになったのは、嬉しい限りです。
 なお、走路からは直接見ることが出来ませんが、千鳥が淵公園の中程、桜田門起点で3.3km地点から3.4km地点にかけて、椿の高木が沢山植えられています。 トイレの建物の裏に当たりますが、椿に囲まれるように、「親善桜」の碑があります。 ’57年、離日に際し、駐日英国大使デニング卿(築地生まれ)が贈って下さった枝垂桜の由来が記されていますから、ご覧になって下さい。

 ツバキの花は、通常、雄しべと花片が、バラバラになることなく、ポロリと落ちますので、この点に着目して常識的なサザンカとの区別法としています。 この特徴が、「首が落ちる」との連想で、武士階級に忌み嫌われ、江戸時代、武家屋敷に、ツバキは植えられなかったと聞いたことがあります。
 私が、’59年春から’64年春まで、勤務した浜松市。 その市街地北部に三方ヶ原古戦場、犀ヶ崖の奇勝が、住宅地の中に往時の名残を、留めています。
 元亀3年(1572年)暮れ、敵の夜襲を予想した徳川方が、大地の裂け目かと思いたくなるような不思議な地形に、白布を渡して、道があるかの如く見せかけ、襲撃してきた多数の武田方将兵を、谷底に墜死させたと言伝えられています。
 崖の頂に建つ
        岩角に 兜くたけて 椿かな    寥太
                              の十七文字には
椿の花の鮮烈な赤と、悲惨極まる戦場の光景とが、見事に凝縮されています。

               ’82年4月入会   佐々 幸夫(69)
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