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6月 キンシバイ(金糸梅)とビヨウヤナギ(未央柳) アジサイ(紫陽花)
     アジサイ(紫陽花)             アジサイ科

 サツキが満開になるのと並行してアジサイの花が目を惹くようになります。 周回路では、竹橋から北桔橋門までのお濠側、乾濠小公園内では歩道の両側に沢山 植わっています。 乾門を過ぎてからは、代官町料金所裏に例年、鮮やかな青い花 が印象的な1基が車道側にあるだけです。
 以前は、竹橋から先の桜並木の樹間にもアジサイが並んでいましたが、平成に なって早々、特殊舗装に衣替えしたのに伴って、ツツジに代えられました。
 千鳥が淵公園にも、内堀通りの歩道沿いを主にして、あちこちに植栽されて いますし、三宅坂でも最高裁の筋向いのお濠側に、別して早咲きの株を含めて 3株あるほか、警視庁筋向いから桜田門近くまでにもアジサイが散在しています。

 アジサイは、日本原産の花木で、万葉集にも2首収められています。 ご存じの 方が多くなりましたが、普通「花」と呼んでいるのは、蕚片が大きくなったもので、 装飾花と呼ばれ、その大きさと色に目を奪われて、その中心にある粟粒を大きく した程の淡黄色の部分が本来の花(正常花)だと聞かされても、俄には信じられ ません。
 アジサイの原種は、太平洋岸に自生するガクアジサイで、アジサイは、ガク アジサイから派生した種であると考えられています。 皇居周回路では、竹橋に一番近い1基がガクアジサイで、警視庁筋向いにもあります。
  あじさい
 ガクアジサイの名は、4枚の花片のように見える装飾花が数本、直径4〜5ミリ の青い小さな小さな5弁の正常花が密集した周りを、あたかも額縁のように、取り 囲んでいる様から来ています。
 アジサイでは「周辺に数本だけ」ではなく、中心部の正常花が失われ、すべてが 装飾花を持つ極端な形になっています。
 アジサイは中国を経て、1789年に英国に渡り、様々に品種改良が加えられ、 現在見られるような華麗且つ多様な品種が作出されたのだそうです。
 千鳥が淵公園沿いの中程、3.3kmプレートのすぐ手前の1基が、額縁型の花を着けます。葉はアジサイ、ガクアジサイに比べて細長く、やや薄くて光沢がありませんので、ガクアジサイではなくて、ヤマアジサイ(別名 サワアジサイ)かと思われます。ヤマアジサイは、木もあまり高くならず、1mか、せいぜい1.5m。花は小振りで、山間(やまあい)にひっそり咲いているのが似合いそうな、つつましやかな印象を受けます。
 アジサイを詠んだ和歌は、平安期に6首、鎌倉期に15首、室町期に5首が 知られているだけと言われます。 万葉集の2首も含め、これらの歌は、現在の 「ハイドランジァ」と呼ばれるハイカラなアジサイではなくて、改良前のアジサイ やガクアジサイを詠んだものであることに注意すべきだと思います。

 アジサイには、紫陽花の文字が充てられています。 これは、白楽天の詩の一節 にある「紫陽花」を、10世紀(平安時代)に源 順(みなもとのしたごう)が、 アジサイを指すと解釈したことに始まると言われます。 また、アジサイの花の色 は、深い青から赤紫まで幅広い上、同じ花でも、日々、微妙に変わることから 「七変化(しちへんげ)」の別称もあります。
 また、その色は、土壌が酸性であれば青く、アルカリ性であれば赤く発色する とも、土中の鉄分やアルミの多寡が関係しているとも言われます。

 標題でアジサイをアジサイ科としましたが、従来は、ユキノシタ科に分類するのが一般的で、公園の樹名板でもそうなっているのを見かけます。 手許にある昭和天皇の遺著「皇居の植物」もそうなっていますし、’01年5月27日の毎日新聞日曜版4頁の紹介記事もユキノシタ科になっています。 アジサイ科を独立すべしとの主張は、昭和の初期からあったようですが、DNA分析の結果など、広く支持されるに到ったのは、’80年代に入ってからだそうですから無理もありません。

 植物学上のエピソードとして有名なのは、商舘医として幕末(1823〜 1829)の長崎に来たドイツ人シーボルトが、帰国後著した FLOLA JAPONIKA(日本植物誌 1835)で、アジサイにつけた学名、 Hydrangea otaksa にまつわるものでしょう。
 現地妻だった楠本たきに因んで名附けたのですが、otaksaが何を意味する のか長い間疑問だったそうで、「おたきさん」の肖像画に、シーボルト自筆の otaksaが見つかって、彼女に寄せた心情が判ったと言われています。
 私は、昭和17、8年頃出版された旧制中学の「博物」の副読本の囲み記事で、 学名の由来を知りましたが、この学名は、現在では使われて居りません。
 品種改良が進んで、フローラ・ヤポニカに載っているアジサイが、もはや種の 標本として役立たなくなったのでしょうか。

 現在使われているアジサイの学名は、 Hydrangea macrophylla
           ガクアジサイの学名は、Hydrangea macrophylla f.normalis で、 先に命名されたアジサイの方が本家扱いされていますが、前述した通り、学問上は、 アジサイが、ガクアジサイから派生したと考えられています。
(属名の Hydrangea は、果実の形状に由来する「水差し」を意味し、種名の  macrophylla は、「大きな葉」を意味する言葉です。 ヤマアジサイの学名はHydrangea serrata です。「大きな葉」に代えて、「鋸の歯状」というのは、葉の縁の形状(鋭い鋸歯状)から来た命名でしょうか)

 シーボルトが成し遂げた功績は、植物学上の貢献だけでも、多岐に亘ります。 ライデン大学附属植物園にある銅像の周りには、命名を記念してか、アジサイが 植えられていると、’00年11月1日23:00からのNHKテレビ 地球に 乾杯「シーボルト花物語」で紹介されたのを視聴しました。
 序ですが、「おらんだおいね」で知られる楠本いねは、シーボルトの忘れ形見で、
日本の女医さんの草分けの一人。 明治3年(1870)、44歳のとき、東京・築地で産科医を開業しました。
 父、シーボルトは、持ち出し禁止の日本地図をオランダに送ろうとしたとして、文政12年(1829)12月、国外追放になるのですが、条約によって許され、安政6年(1859)7月、12歳の長男アレキサンダーを伴って30年振りに再来日、楠本母子と感激の再会を果たしています。
(こちらもNHKが、’00年8月5日22:20からテレビ ドラマ「おいね・父の名はシーボルト」で紹介しました)

 万葉集に、アジサイの歌2首と書きましたが、その一つは、左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)から右大弁丹比国人(たじひのくにひと)に贈ったとされる次の歌。 詠まれた経緯も、意味もさっぱり解りませんが・・・

     あぢさゐの 八重咲くごとく 八つ代に
            をいませわが背子 見つつ偲ばむ

                 ’82年4月入会   佐々 幸夫
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