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5月 ツツジ(躑躅) ユリノキ(百合の樹)

       ユリノキ              モクレン科

 皇居周回路を左回り(反時計回り)に走る場合、代官町通り沿いの終わりに、走路が極端に狭い「切り通し部分」を通ります。 ここに桜田門時計塔起点3.0kmを示す滋賀県プレートがあり、間もなく左折して内堀通り(都道401号線)に出ます。 走路の車道側街路樹は、モクレン科の落葉高木ユリノキです。 ユリノキの並木を通して筋向いの英国大使館を見ながら進んで約500m、半蔵門前からは同じ内堀通りが国道20号線に変わります。
 ここから先のユリノキはいずれも見事な巨木。 左手眼下、桜田濠の景観を引き立てながら、ほぼ10m間隔で桜田門手前まで続きます。
ユリノキの花は、5月初めから咲くのですが、高い梢に咲いているのと、花の上半分が黄緑色のため、目立ち難く、下り坂になる半蔵門先まで来て、開花に気づくことが多いのです。

 ユリノキの原産地は、北米東部ですから、わが国に輸入されたのは、江戸時代末期、開国後の筈です。 明治初年、当時の人たちは、始めて見るこの木に、いろいろな名を附けました。英語名は、tulip tree(別名 yellow poplar)ですから、チューリップの木という名もあったようですが、何とも変わった葉の形に注目し、袖を拡げた袢纏に似ているからとつけられたハンテンボクという通り名が、今も使われています。 他にヤッコダコノキ、グンバイ(軍配)ノキという名も生まれたようで、いずれも葉の形に由来します。 和名がユリノキだと知ったとき、「あの花を百合と見るのは、少々無理があるな、当時の人達にとって、チューリップは、まだまだ馴染み薄だったのかな」と推量しました。
 その後、学名は、Liriodendron tulipifera Linn. で、和名のユリノキは、この直訳と知ったときも、「学名は、ラテン語風の表記の筈。 ラテン語の百合なら、lilium 。 ひょっとして、Lilio…のミススペルか? チューリップノキとしなかったのは何故か?」と疑問に思ったのですが・・・・・。 属名は、ギリシャ語のleirion(百合)+dendron(樹木)に由来し、種名は、「チューリップのような花」を意味し、Linn.は、著名な植物学者リンネの命名であることを示しています。 直訳と称する根拠如何という疑問は、以上の経過を辿って、やっと解決しました。

 5月初旬頃から、枝先に径6cmほど、チューリップに似た花が上向きに咲いても、葉陰の花を下から見上げることになるため、暫く開花に気づかないことがあります。 長さ4cm〜6cmほどの同じ大きさをした6枚の花びらは、下部に橙色の部分がある薄黄緑色で、その真ん中に黄色い多数の雄蕊が、雌蕊が集合した円錐体を囲んでいます。 また、花の下にある薄緑色のガク片は3枚で、開花すると下方に反り返ります。 受粉した花柱は次第に大きくなり、秋が深まる頃、翼を持った果実が風に乗って飛び去った後、果軸と言われる部分が寒々と突っ立っているのを見かけます。
 花以上に注目されるのが、葉の形です。 尖っているのが普通の、葉の先端が、何と少々凹んでいるのです。 「袢纏木」の名の通り、左右の脇の下に当たる部分が、直角に抉れていますから、先端中央を緩い裂け目と見做せば、三裂、五裂といった奇数裂でなく、四裂(仔細に見れば、六裂の葉も)しているわけで、私の手許にある朝日新聞既刊「植物の世界」100号9−120頁で、「被子植物の中で、一、二を争う奇天烈な形」と紹介されています。  
 花の橙色の部分から分泌される蜜で、直下の葉に、蜜で濡れた「照り」が見えることさえあります。
 ’05年5月9日の朝8時前のNHK、1チャンネルが、三宅坂のユリノキから蜂蜜を採る養蜂家を話題にしました。 巣箱は、社民党本部のビル屋上にあることも、以前にマスコミの話題になりました。 蜜を狙っているのは、養蜂家ばかりではなく、蜜の香りに誘われて、鴉の悪戯も後を絶ちません。 人の手の届く筈も無い高所の枝が折られて、走路に落ちていたり、穴の開いた蕾や花が、無残に散らばっていたりします。

 新宿御苑のウェブサイトによれば、同園内の寄り添うように立つ3本の巨木が、全国の街路樹としてのユリノキの母樹だそうですし、他方、上野の東京国立博物館本館前庭、向かって左の巨木は、明治8、9年頃渡来の30粒の種子から育った一本の苗木を、明治14年に現地に移植して今日に至ったものだそうで、同館には、「ユリノキの博物館」の異称があります。 東京では、この2箇所のユリノキが、古木の代表だと言えましょう。 

 アメリカ大陸発見以後、ユリノキは、早くからヨーロッパに齎され、前期ロココ様式(1725〜1774)の家具材として重用されたなどと言われています。
鎖国を続けた日本には、明治初年になって、やっと入ってきたのですが、実は、東アジアの各地で、新生代に繁茂したユリノキの化石が出ます。 日本も例外ではなく、昭和になってから、化石の発見が相次ぎ、「植物の世界」87号8−96頁には、鳥取県で、新生代中新世(2330万年前〜520万年前)の地層から出たという化石の原色の写真が載っています。現在よりずっと温暖だった第三紀初めの時代(暁新世6500万年前〜5650万年前、始新世5650万年前〜3540万年前)には、現在の北極地方を中心とした広範囲の大森林が存在したので、遠く離れた東アジアと北米東部(主としてアパラチア山脈南部)の植物との間に類似性が認められるとか、その後、寒冷化、温暖化を繰り返しながら、漸新世(3540万年前〜2330万年前)から中新世(2330万年前〜520万年前)と進むに連れ、傾向として次第に寒冷化が進み、常緑広葉樹林帯であった地方が、ユリノキのような落葉広葉樹林帯に変わったとか、日本では、1500万年前に大陸から日本列島が分離し始めて特異な変化を遂げたとか、地質学の発達と並行して、化石の研究により、太古の森林の様子が解き明かされてきました。 
 やがて、100万年前以降に氷期、さらに現在を含む間氷期を迎えて旧いタイプの植物は、殆ど全部が絶滅しました。 ユリノキ属は、北米にユリノキが残り、中国南部からベトナムにかけてシナユリノキが残っただけという経過を辿りました。 シナユリノキ(Liriodendron chinense)は、ユリノキに比べ、花が小振りで、雌蕊の集合体が花から突き出ている点で区別されるものの、非常に近縁だそうです。 このように、何千キロも離れた別の大陸に、明らかに共通の祖先を持つ非常に近い種類の植物が分布することを、「隔離分布」といい、1千万年単位で語られる地球の回転軸の変化、大陸移動、気候変動といった要因で、植物の大規模な絶滅が繰り返される中にあって、辛うじて生き残るものがあるためと説明されています。 この両者の存在は、その典型例の一つとされています。

(註)上記を記述するに当たり、朝日新聞社刊 週刊「植物の世界」29号3−159頁、87号8−94頁、8−96頁、93号8−274頁、100号9−120頁、108号14−275頁および平成15年5月24日附 朝日新聞夕刊 1頁「花おりおり」ユリノキを参考にしました。

 
 検索エンジンで、ユリノキを検索語にして、いろいろなウェブサイトに出入りしてみましたら、ユリノキという和名の命名は、明治23年で、命名者は皇太子時代の大正天皇だと紹介しているサイトがいくつもありました。 図鑑類では、学名の直訳としているのに、何故だろうと調べてみたくなりました。
 殆どのサイト、ブログが、「伝聞」だとして、出典を明かしていませんが、「植物名通信――植物名称研究所――」が、大正天皇命名説は「小石川植物園に伝わる言い伝えだ」と指摘した上で、「東京帝国大学学術大観」に「明治23年11月30日同植物園に皇太子殿下行啓あらせられ、(中略)璽今ユリノキとせよと仰せらる」と、出典を明示して引用しています。
 「大観」の記述と対極をなすものとして、「風の詩:チューリップの咲く樹」というso-netのブログが、「大正天皇がこの樹に関する説明を受けられた折、その学名を耳にされて「では、ユリノキだね」と仰ったことが元になって(中略)」と東京国立博物館の、樹木解説ボランティアの方から伺ったと、伝聞情報を提供しています。
 明治12年8月31日生まれの大正天皇は、この日、満11歳3ヵ月。 明らかに「御学問」のため小石川植物園を訪問された、学習院初等科5年生です。 係員の説明に、理解できたと相槌を打たれただけですよ。 「学術大観」とやら、大袈裟な作文を書いたものですね。 スキーも乗馬も水泳も「忽ち御上達」と報ずるを常とした戦前の皇室記事の走りとしか言いようがありません。
 動植物にお詳しかったのは昭和天皇の筈と、自己流の解釈を加えて、命名者を昭和天皇とした誤伝聞を広めているサイトまであります(昭和天皇は明治34年4月29日のお生まれ)。
 インターネット情報の百科事典的便利さと信頼性の危うさとを教えてくれる好例として、敢えてここに掲載します。

                   ’82年入会  佐々 幸夫

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